超える
(京都 峰定寺 不動明王二童子像 重文)
人と人の縁のはじまり、縁の終わりの原因を思う
それは心からきて、心からさる。
敷居が高いと仰る方もいるが、それはその人が勝手に思うだけのこと
訪ねてくれば御本尊様は居られる、とても良いことじゃありませんか
お授戒をお寺で行なっているが、なかなか縁をいただけない人もおられる、大きく分けてお金が貯まらない或いはない、死んでからもらうものと錯覚、宗派が違うからできないなどなど。
お金がない….授戒にはその人のために調える支具を用意します、他から用立てするものが多い。
貯まらない…少し貯まれば仏より大事だと考える心が他へ用いる
死んでから貰う…死者に死んで戒めが必要なのか、生きているときに自らが心がけ実践してこその戒名・法名、そこへ託された本来の秘密の名前である。
宗派が違う…御釈迦様の教えに宗派などありません、宗旨宗派は釈迦の恥とさえ言われるくらいです。
また、団体で意味なく貰っちゃったと嘆かれるのならば、師を変え新たな師へ付くこともできます。
遠近・病など、そのまま仏になることを諦めなければお授け致します。
※お授け=無料と勘違いされる方がいますが、無料で授けていただけるほど何を施されたのかと、自問されることも大切。
門前に入る前から、言い訳が多く何故そうなのか、決心が緩いのでしょうか
何事のチャンスを逃しやすいのかもしれません、師を決めるのに他へ顔立てしできない、そんなものを超えるための授戒かと。
仏としての第一歩がお授戒、先日も一名の方が授戒され、戒名の文字がそれまでの人生を知っていたような説明とご自身しか知らないことなどをスラスラ思いあたり、戒師の授けられた戒名にご主人も娘さんも大変驚かれておられました。
ご本人さんも長年抱えておられたことが絡んだ紐のように解かれたと、大変喜ばしいスタートを仏門の仲間へとこれから切磋琢磨し歩んでいく仲間が増え、喜ばしいく思います。
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