執着
今朝方の地震、九州の大雨、コロナウィルスの感染増加など、大丈夫でしょうか。
大きく環境が変化する入り口、世界中が混沌とし破壊活動などニュースで目にする近頃、目先の執着に捉われ判断が鈍くなってきているようです。
執着という枠の中、とても苦しく地獄の苦しみから抜け出せずに居られる。
今日、寺内で象の話をしておりました。
目隠しをした十人ほどに見たこともない象に触らせ、どんな生き物か尋ねたら、一人は象の足、一人は象の鼻、一人は象の尻尾を触り言いました。
大きな柱のような生き物
くねくねとした太くて柔らかい生き物
細くて硬い長い生き物
一部分の経験が象の全体に思い込んでしまう、目隠しを取り全体を見ればどんな生き物なのかとらえることができるのですが、執着という目隠しがなかなか外せずいるのですね。
よく電話で問い合わせが入りますが、答えようもないことが多い。
まず寺に行けば和慧さんに会える、思い込みですね。
寺に居てもお会いする理由が分かりません、相談ですかと問えばご挨拶と。
寺の主はお不動様です、ご本尊様へご挨拶をすることが大切、偶然にもお会いすることがあれば身の上話を延々と語る、そして判断を求めてこられるがながら話のついで毎に答えようがありません。
土を作り、種を蒔き、手入れをしながら育て実を収穫できます、実だけ頂戴というのも些か都合が良いように思うのです。
ご本尊様をお守りされる旦那(ダーナ)さんとは様々な話をさせていただく機会があります、聞かれなくても不思議と自然にそういう縁がうまれる。
強引につくる縁は続きません、象の一部だけを見て判断する訳ですから「明」ほど厳しく、力強い。
十三佛さんの一番前に居られる意は、京都十三佛はじめ三十六不動巡礼の際、対機説法させていただいたり、縁側説法でも聞いていただきました。
もちろん、皆さん各々にお調べ頂いたりして切磋琢磨できれば幸いです。
昨日、プラムでジャム予定がヨーグルトソースへ変更(笑
座敷オヤジさんのキャベツは….
僧侶=精進料理のイメージが強いですね、どうしてそうなったかと言う訳は長くなるので書きません。
ただ、布施されたものは頂戴します、行中は何でもよい訳ではなく布施そのものがありません、死なない程度の一汁一菜、その以外は布施ですから、される方の罪業を受け取る、僧侶の大役です。
供物と布施は意味が異なり、それで何もお印がないと供物なのか布施なのか迷うところです。
キャベツから逸れてしまいました。
修治をして、キャンプ用の鍋を使い、茹でこぼしができる優れもの、ハンドル方向へ写真のため向けました。
燃料も選びません、火の通りが早いです
頂いた賞味期限が近づいているインスタント麺を投入、袋は中を拭いて折畳み洗い終わった鍋に収納しておきます。
大変美味しゅうございました。
今夜はここでおしまい。
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