心霊写真
人魂の通り道が開くとき、所謂「霊道」と言うべきか。。。
鉛のような鈍色を通る球のような移動がコマ送りのようになっているのがお判りでしょうか、身内のご不幸が近づきつつあり、開く道はいくつかありこれはその中のひとつ、どこの道が開いたのかはあえて書きません。
一瞬のことですから、よほどの縁がなければ撮影できないでしょう。
少し拡大して見ましょう、球が移動していることが分かりやすいかと
様々な理由から、この「霊道」を通るものはたくさんおり、いくつもが移動していることが見えていますね。
波動という表現を使用するのは、これらが移動するとき起こる波長の乱れというか、そのようなものを感じ取れるということでしょうか。
生まれ持ったものには特段問題ではないので、表現の難しさを覚えます。
さて、これを日々意識的に感じ取ることをコントロールできなければ、日常生活はとても難しいものになってしまいます、そのコントロールをするためあることを心がけております。
この霊道を感じたあと、一週間ほどあるいは早ければ二、三日後に訃報が届きます、私でなくとも偶然撮影できてしまうことも少なくありません。
知人が自室で写真を撮り、以前、私から話を聞き写真も見せていたので不安を覚え寺へきました、間違いなく「霊道」の写真、知人の側にできていたのですから、お身内に間違いがなく急ぎ帰宅するよう伝え、お父様の旅立ちに間に合うことができたのです。
よく人の姿だとか手や足などが写っている写真を心霊写真だと、その多くはカメラのいたずらですね。
人の気配とか動物の気配を見えていないのに感じる、それは不思議なことでもなんでもないのです、生物の中には微量ながら電気が流れていますから、その音の大小を聞き分けられる自分自身にその環境にあれば、違和感を感じるつまり自分の持つ波動と違うため気配になるのです。
自分にとってプラスなのかマイナスなのか、それは自分自身が今プラスにあるのかマイナスであるかを知らなければなりません。
自分の環境変化を知る手立てとして、マントラの厄年であるかプラスかマイナスかを調べ、その人の環境をよい方向へ導いていく方法が「業厄払い」であり、厄月を調べるためのカレンダーであり、毎月の不動会にて執行される「御護摩」法要でひとつきのプラスマイナスを整える訳です。
また、旅立ちの前に愛おしい者へ挨拶に来る、つまり死んでいないのに気になる人がいたりするのも、同じようなことです。
枕元に立つというのがそれに当たります、何も寝ているときだけに来るわけでもありません、来ていても知らないだけだったり波動がうまくキャッチできない、あるいは伝えられないということはままあるものです。
そういうときに送受信が強い私を使われることも多いです、誰にでもできることなのだけれど手抜きをされていたり、依頼心が強いと片手落ちになるため不安が出てくるのでしょう。
次の写真を見てください
ご遠方のお婆さんが愛おしい孫に別れを告げに会いに来られたものです、友人と写真の撮り合いをしたとき、お婆さんが気になったそうです。
それから間も無くお婆さんの訃報の知らせがあり、急ぎ駆けつけお別れに間に合ったとのこと。
まだ、ご存命で更にとても御信仰の厚い方でしたので、人型そのものの姿で綺麗な波動を持たれていますね。
お孫さんもお婆さんをお手本とされ、人生の整え方が素敵な方です、波動の整っておられる方は側にいても心地がいいものです。
人の噂よりも、率先して積善行をされ、それを持ってして供養なり御回向を実践されておられる。
さて、もう一枚見ていただきましょう
この写真の持ち主が気になり、私のところへ持参されたものです。
中央の白い部分はライトの反射です、右下をご覧ください波打った何かが見えますか
怖い写真ではなく、この持ち主が知人の供養をよくされていたご様子、しかし、体調が思わしくなく薦められある方に見てもらったところ悪霊がついていると言われたそうです、お祓いを薦められたが一向によくならず、本当にそうなのか真実を知りたいと私を訪ねてこられました。
この写真を撮ってからの不調とのこと、しかし、これを拝見し全く真逆でした。
知人の方が供養してくださったことに嬉しく、この持ち主へ病の知らせをしていてくれたものでした、急ぎ病院へ行き検査をされ重大な病が隠れていたことが分かったのです。
もう少し遅ければ手遅れとなるところでした、このような恐ろしいような写真だからこそ気になり、訪ねて来てくれたのですからありがたいことです。
お元気になられお礼参りに来られたときも、ご本尊様への灯明、知人の御回向、御朱印をされ無事ご帰宅されたとの御丁寧にお葉書を頂戴いたしました。
紫や赤、黄色やオレンジなどの波動を持たれる亡きものもおり、それぞれの意味合いがあります。
お寺というところは、積善をされる行場だと、草取りやお磨き掃除もそのひとつ、あるいは御朱印ものぼりも、お守りも購入された浄財が何某のお役に立つわけですから、御来山の際はご自身のできることをさせていただく、してやっているのではありません。
そして、続けることがなかなか難しいけれど、継続するということではないでしょうか。
こういうことも書き残して置く時期に入り、それが私の役目であることを果たすということでしょう、尚、お手紙や電話でのご相談は行き違いが起こりやすく行なっておりませんので悪しからず。
年末年始の準備もはじまり、皆様方もどうぞお申し込みなど多忙に任せお忘れがありませんように。
コメント ( 2 )
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ご住職様、おはようございます
この心霊写真、怖さではなく見入ってしまいました。霊能力はない私には、とても想像もつかないただただ不思議で、、
今はこの世が全てに思え暮らしていますが
いつかは私もあの世へいく
それを考えると、何だかこの世の暮らしが夢のような儚く思えてきます
こういうことも書き残して置く時期に入り
それが私の役目であることを果たすということでしょう、、、ご住職様のお言葉に色々深く考えております
今の日常は、とにかく自分の足元をしっかりし
まずは一番身近な家族に寄り添うことばかりに心が行っております
しかし、そんな私でも、家族を越えて、やはり何かしら人様や世の中のためにする役割を頂いて生まれてきたのでしょうか?
その役割とは何だろう
このところ、そういったことを深く考えるときがあります
ご住職様には、ご住職様にしかなされないお役割
私には私の役割。
私の役割は何だろう。
仏様のお声を直接お聞きすることは出来ないので分かりませんが、役割は「得意なこと」と心得れば良いのでしょうか?
そんなことを静かに考えながら、通勤電車に今います(笑)
ご住職様のお綴りに、癒し、笑い(テラちゃん)自分に置き換え考える時間、日々色々と頂戴し
今日もありがたく、私なりのお心込めたお仕事して参ります
長々呟いてすみません、、
ご住職様も、ご自愛とよい日をお過ごしになれますように
ゆうこさん 裸で生まれ、何にも知らないままの私を縁としてここまで教え育ててくださった先人達、そして現在尚且つご支援応援をしてくださる方々へ、有縁無縁関係なくこの身に蓄えてくた経験や知識などを次世代へ伝え、生まれてきたとき同様に空っぽにしていこうと思うこの頃。そのまま自分のものにしていくとただの「時泥棒」になってしまいます、身軽に旅立つことができればありがたいこと、いわゆる心が軽くなって行きますからね。