ものの見方と捉え方
先日、自然の生き物という映像を観ました。
生きるため単独で狩をするものあり、小さなグループとなり役割分担しながら狩をし分け合い食べるもの、絶対的ボスが全体を統括し大きな群れを守る。
単独では何日も食べられないこともしばしば、しかし、油断さえしなければ獲物は独り占め。
役割分担はどうだろう、少数精鋭が揃わなければ失敗につながるので分担責任は必然的に重い、信頼がなければ纏まらないけれど信頼できれば平等に獲物を分かち合うことができる。
絶対的ボスが担う重責、老若男女を問わず守らなければならない孤独なボス、若くて力だけでも駄目、ただ老いて居るだけではボスになれない。
人に近い「猿」の群れを見ているとやはり人に近いのかもしれません、諛うものがいたり、ちょっとしただけでも大騒ぎをするもの、ボスの座を虎視眈々と狙っているもの、よく観察しているとボスになれるものにはそれなりの理由がある。
間もなく人が作ったAIの時代が押し寄せ、何歳以上は処分、子供生産工場、いろいろな管理が徹底され忖度の余地もなく、霊長類から陥落するのも、いや自然から見たら人も動物の一種に過ぎず、目に見えない信頼の絆で繁栄してのでしょう。
ものごとは「不二一体」いわゆる表裏一体とも、歴史の最先端を生きる今、どこを冷静にみていかなければならないのか。
世界は動いており、政事が止まっている、噴火で苦しむもの、雪解け災害、復興も進まないなか世界の群れから孤立の可能性も、己が欲を優先し亡者をおくる時も与えず…
一票の重さと生きるを考えさせられるこの頃。。。
平和が続くなかで、一人の我欲から仕掛けられたものとすれば、とても脆い部分が国にあったということかもしれない、生き生かされている感謝を深く考える機会かもしれません。
仏様の平等な目で見極めたいものです。
コメント ( 0 )
トラックバックは利用できません。
この記事へのコメントはありません。