追憶
子供の頃、祭りが近づき笛や太鼓の練習の音が聞こえてくると、嬉しくてドキドキしていました。
盆まつりには、日が暮れる頃から近所の子供達がゆかたを着て集まり、下駄の音を鳴らしながら手をつなぎ夜道を家々の灯りを頼りに小走り。
「だせーだせー、ろうそく出せ〜、出さないとかっちゃくぞ〜」と大きな声を出し戸口へ立ちます。
ちょうちん用のローソクとお菓子を貰い、次の家へ向かい声をあげて順次回ります。
盆踊り会場の櫓上から聞こえる太鼓に誘われるよう、子供達のグループがあちらこちらから集まり、「こんなにたくさんもらったよ」と自慢げに広げ、一番上の子供に平等に分けてもらうのを目を輝かせ待っていました。
当然ながら「あっちのお菓子がいい!」「もっと欲しい!」泣く子や、駄々をこねたりひったくったり、挙げ句の果てには取っ組み合いの喧嘩なども今は懐かしい思い出。
年長の子が「仲良くしないとお菓子はやらんぞ!」仕切りますが、尊敬されていない子は収まりがつかず、遠くから見守っていた大人が「何しとる!」の一喝にみんな仲良くなるのでした。
盆踊りの輪に入り、見よう見まねの手振りで踊り、ご先祖様へのおもてなしをします。
それから出店へ行き、ヨーヨーやお面・ハッカの笛とわた飴、子供だったころ、それはそれは極楽の盆祭りでした。
あれから60年が過ぎ「子供の夢や希望を叶えてやれるようになったら、やっと一人前の大人になったということ。子ども時分が懐かしく楽しかったと思えるのは、その時代の大人が凄いということなんだ。まつりは面倒臭い、しんどいものだよ。だから、それを越え心を合わせた者だけが知る喜びは一入(ひとしお)、子供達が大きくなっても尊敬される大人になれる、その子供達が見習い次のまつりを担っていく。イベントとまつりは大きく違う、イベントは一方的だけれどまつりは認められなければ人が集まらない、まつりの良し悪しは始末の真ん中で決まるもの、裏方を立派に務めてこそ大人というものだ。文句ばかり言うもの、言い訳が多いもの、口ばかりのもの、ローソクや菓子取りの餓鬼から成長していない証拠。ぼやく暇があるなら、まつりのひとつくらい出来る大人になれやい。」亡き祖父の教えが身にしみる今年の竹華灯籠まつり、大人になれるかお試しの年。
それにしても、間に合うのか…..
お地蔵様、ご先祖様が見てござる。
うさ姫も出番待ち。
コメント ( 4 )
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良いですね。笑
盆ではないですけど、子供の頃の祭りの楽しかったことを思い出しました。。
おいらの場合、いまだ大人になることの意味が見いだせないのですが。。このところ、「領分」に意識がいきます。。
人のあるべき領分と、人ならぬもの…というよりも「大いなるものの意志の下」の領分と…。。
その「大いなるものの意志の下」の領分を、われわれが賢しい知恵を持って犯せば、些細なものは手に入るのかも知れないけど。。
最後は、多くの大切なものを見失い、手にしたはずの些細な便利までが悲しみや苦しみに…。。
などと、妄想中です。。
焚き火小屋さん 只今、大人になれるか奮闘中です!! 不便が便利を生み、便利が融通を拒み、さて、ここからどうなるやらです。
そうそう!先日、ログハウスマガジンの取材を受けました。。
次号の巻頭グラフです。。
機会があったら見ていただけたら嬉しいです。。
焚き火小屋さん 是非、拝見させていただきます!!7月号ですね。